各仏さまについて

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各仏さまについて

ご本尊 不動明王(ふどうみょうおう)

ご本尊 不動明王(ふどうみょうおう) 眞久寺のご本尊「不動明王」は、「不動尊」や「お不動さん」等と呼ばれる仏さまです。不動明王は「大日如来」という仏さまが、悪い者たちを説き伏せるために恐ろしい姿を仮に現した存在とされています。不動明王は、背中の火焔で汚れを焼き浄め、修行者を守る明王として長く信仰されてきました。日本では平安時代初期から現代に至るまで、永きに渡って人々の信仰を集めています。

 眞久寺では、毎月28日午後1時よりご本尊不動明王の護摩供法要を勤修しています。

六角堂本尊 如意輪観世音菩薩(にょいりんかんぜおんぼさつ)

  • 六角堂本尊 如意輪観世音菩薩(にょいりんかんぜおんぼさつ)
  • 六角堂本尊 如意輪観世音菩薩(にょいりんかんぜおんぼさつ)

 眞久寺六角堂のご本尊「如意輪観世音菩薩」は、聖徳太子が用明天皇2年(587)に創建したとされる京都市紫雲山頂法寺六角堂のご本尊のご分身を日本で唯一頂戴した仏さまです。この頂法寺は華道池坊発祥の地であり、眞久寺の六角堂も北海道での華道発展のために大正14年(1925)に建立されました。

 如意輪観世音菩薩は、6本の腕を持ち、宝珠・念珠・蓮華・法輪を持つほか、右の第一手は頬に当てて思惟の姿を示し、左の第一手は地を撫でるように垂れ下げています。これは、どのようにして生きとし生けるものたちを救っていくべきか考えている姿であるといわれています。

 眞久寺六角堂では、毎月18日午後1時よりご本尊如意輪観世音菩薩の護摩供法要を勤修しています。また、如意輪観世音菩薩は秘仏となっているため、普段は一般公開しておりません。毎年9月18日の例大祭時のみ御開帳をして一般公開致します。

 このお堂は屋根が六角形になっていることから、六角堂と呼ばれています。なぜ、六角形になっているかというと、六道(ろくどう)をさまよう生きとし生ける者たちを救済するためといわれています。六道とは「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天」という六の世界を表し、私たちはこの世界を永遠に生まれ変わり続ける「輪廻転生(りんねてんしょう)をしていると考えられています。如意輪観世音菩薩は、六道の中で輪廻転生を繰り返す生きとし生ける者たちを救済するため、人々の罪を消滅しようとするのです。この罪を消滅させることを「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」といいます。六根とは、人が持っている感覚・認知能力である「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・心」で、これらを清浄にすることにより、人々を悟りに導くといわれています。この六根も六角形の由来の一つです。

金胎両部立体曼荼羅(こんたいりょうぶりったいまんだら)

  • 金胎両部立体曼荼羅(こんたいりょうぶりったいまんだら)
  • 金胎両部立体曼荼羅(こんたいりょうぶりったいまんだら)

 曼荼羅(まんだら)とは、サンスクリット語で「本質・真髄」等を意味する「マンダ」と「所有」を意味する「ラ」の合成語で、「本質をもてるもの」「本質を図示したもの」という意味があります。つまり曼荼羅とは、仏教において本質的なものである「仏のさとり」を成就した境地の表現であり、仏教の理想を理念的で体系的に表したものといえるでしょう。

 真言宗の曼荼羅は、「金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)」と「胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)」の2つの曼荼羅が存在し、これらは総称して「両部曼荼羅(りょうぶまんだら)」と呼ばれています。真言宗には根本となる経典が2つ存在し、『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)』というお経の世界観を表したものが金剛界曼荼羅、『大日経(だいにちきょう)』というお経の世界観を表したものが胎蔵界曼荼羅であるとされています。

 曼荼羅とは通常図画によって描かれるものですが、眞久寺の曼荼羅は日本で初めてその姿のまま仏さまたちを立体化した「立体曼荼羅」をおまつりしております。この立体曼荼羅は、大仏師である服部俊慶師が曼荼羅に描かれる2026体の仏像を彫刻され、眞久寺本堂に奉安されました。

釈迦如来(しゃかにょらい)(北海道八十八箇所霊場 第一番札所ご本尊)

釈迦如来(しゃかにょらい)(北海道八十八箇所霊場 第一番札所ご本尊) 釈迦如来(釈迦牟尼如来)は、仏教の開祖であるお釈迦さまです。「釈迦」とはもともとサンスクリット語で「シャーキャ」といって部族の名前を音写したもので、個人名を表すものではありませんでした。しかし古来より釈迦牟尼(しゃかむに=シャーキャ族出身の聖者)という通称で呼ばれることが多く、日本においては釈尊(しゃくそん)という尊称もよく用いられます。

 また仏陀(ぶっだ)とも呼ばれることがありますが、これは正確には「覚った人」という意味で、お釈迦様もお釈迦様以外の仏さまもみな「仏陀」ということになります。

阿弥陀如来(あみだにょらい)(北海道八十八箇所霊場 第二番札所ご本尊)

阿弥陀如来(あみだにょらい)(北海道八十八箇所霊場 第二番札所ご本尊) 阿弥陀如来は、無量・無限という意味の「アミタ」を音写したもので、その光が無限ですべての世界を照らすことから「無量光」、寿命が無量であることから「無量寿」ともいわれます。阿弥陀如来といえば、浄土宗や浄土真宗等で主に信仰される仏さまですが、真言宗においても重要な仏さまです。別名「極楽化主(ごくらくけしゅ)」とも呼ばれ、極楽浄土を守る仏さまです。

大黒天(だいこくてん)

大黒天(だいこくてん) もともと大黒天はインドの戦闘神でしたが、日本においては中世以降に大国主命(おおくにぬしのみこと)と同一視され、七福神の財福の神として広く信仰されてきました。大黒天に参詣する日を「甲子(きのえね)」というのですが、これは大国主命の危機を鼠が救ったという『古事記』の説話から子の日が縁日とされるようになりました。

  眞久寺では、奇数月の8日午後1時より本堂にて大黒天法要を開催しております。また、眞久寺の大黒天は、朔北(さくほく)七福神霊場の一番札所のご本尊として祀られています。

弘法大師(こうぼうだいし) 西暦774年~835年

弘法大師(こうぼうだいし) 西暦774年~835年 弘法大師は真言宗の開祖である空海の諡(おくりな)です。弘法大師は讃岐国(香川県)に生まれ、15歳で上京、18歳で大学明経科に入学します。797年に『三教指帰(さんごうしいき)』を著し、儒教・道教・仏教の優劣を論じ、仏教の教えが最勝であるとしました。

 その後804年に留学僧(るがくそう)として唐に渡り、翌年には青龍寺(せいりゅうじ)の恵果和尚(けいかかしょう)と出会い、インド伝来の密教を余すことなく授けられました。

 806年に弘法大師は帰国し、唐より持ち帰った経典・密教法具等を目録にまとめた『御請来目録(ごしょうらいもくろく)』を著し、密教が優れた教えであるとして朝廷に献上し、809年に上京を許されました。816年には修行の道場として高野山の下賜を願い、勅許されました。以後高野山は現在に至るまで、真言密教の一大拠点となっています。

興教大師(こうぎょうだいし) 西暦1095年~1143年

興教大師(こうぎょうだいし) 西暦1095年~1143年 興教大師は平安後期の真言宗の僧で覚鑁上人(かくばんしょうにん)、密厳尊者(みつごんそんじゃ)と呼ばれます。肥前国(佐賀県)に生まれ、16歳で出家、南都(奈良県)や高野山で遊学します。その後は当時荒廃していた高野山の復興に尽力し、1134年には大伝法院座主と金剛峰寺座主を兼任し、東寺(京都市)の支配から高野山を独立させることに成功します。しかし金剛峰寺や東寺から激しい抵抗に遭い、1140年に身の危険を避けて高野山を下山し、高野山の麓にある根来山(ねごろさん)へ移り、1143年に根来円明寺で亡くなりました。

 この興教大師の流れをくむ宗派は新義(しんぎ)真言宗と呼ばれ、現在では新義真言宗・真言宗智山派(ちさんは)・真言宗豊山派(ぶざんは)という3つの宗派が残っています。私たち眞久寺は、真言宗智山派に属しています。